研修医・医学生の方へ

留学生インタビュー

シカゴ大学(小牧祐雅/平成16年卒)

鹿児島大学大学院 消化器疾患・生活習慣病学の小牧祐雅と申します。

私は2015年3月からアメリカ合衆国の中西部、イリノイ州にあるシカゴ大学消化器内科・炎症性腸疾患センター、桜庭篤先生の元で研究員(Research Professional)として留学しております。こちらに来て現在一年を少し過ぎたところですが、現在までの留学生活を紹介させて頂きたいと思います。

まず、私が留学したきっかけについてですが、2014年夏頃、医局の上司の先生から、「シカゴ大学の桜庭篤先生が、研究を希望するような医師を探していらっしゃるらしく、行ってみないか」と声をかけて頂いたことです。これまで海外留学もしてみたいなと思うことはありましたが、私は未だ大学院での学位取得をしておらず、今まで当科で留学されていた先生は皆、学位を取得された後に留学されていたので、留学のチャンスが巡ってきたとしても、それはまだまだ先のことだろうと勝手に思っていました。だから、声をかけて頂いた時は、正直なところ、「本当に私でいいのかな?」と思ったものですが、でも、留学なんてなかなかできるものではないと思い、「私でよろしければ、よろしくお願いします」と答えさせて頂いたのを覚えています。

桜庭先生にも直接メールでご挨拶させて頂き、まずはシカゴ大学に提出するための履歴書(CV; Curriculum Vitae)から作成しなければならなかったのですが、履歴書の書き方一つにしても日本といろいろ異なるところがあり、それだけで何度も桜庭先生とやり取りさせて頂き、時間もかかってしまいました。その後はシカゴ大学の事務の方とやりとりをすることとなり、直接いろいろな書類を送っては、また次の書類を準備するように添付メールが相手方から送られ・・ということを何度も繰り返し、2014年12月に、ついに「2015年3月から採用します」とのOffer Letterを頂きました。しかし3月から採用とのことなのに、Visaを申請するための書類がやっと届いたのは2月上旬でした。そこからは急いでVisa申請日の予約をし、2月中旬に東京の米国大使館で申請し、2月下旬にVisaが届き、その数日後に渡米する・・という、かなり慌ただしい日程でした。私は同業の妻と一緒に渡米させて頂くことになっていたのですが、私も妻もこの時期は突然休みをとってVisa申請などをしないといけない時もあり、周りの先生方にいろいろご迷惑をおかけしたと思います。本当にバタバタと渡米してしまったのですが、鹿児島を離れる日には、大変お忙しい中、私の先輩の先生や、妻の同期の先生が空港まで送って下さり、上司からもメールを頂き、うれしかったです。


シカゴに到着した時、空港から外に出た瞬間、あまりの寒さにすぐに建物の中に引き返してしまったのを覚えています。冬のシカゴは尋常でない寒さだとは聞いていましたが、本当に鹿児島では考えられない寒さでした。もう一度覚悟を決めて空港の外に行き、空港シャトルバン乗り場まで急いで行き、シカゴ市内へ向かった後、シカゴ大学病院で改めて桜庭先生にも御挨拶させて頂き、・・・こうして留学生活がスタートしました。

シカゴはアメリカ中西部に位置するイリノイ州の中心都市で、ニューヨーク・ロサンゼルスに次ぐ全米第3の都市として知られています。5大湖の一つであるミシガン湖に面していますが、本当に海のように大きく、湖沿いには市街地でも砂浜の広がる湖水浴場がいくつかあり、夏は多くの人でにぎわいます。しかし、湖からの強い風が年中吹き荒れており、シカゴの別名「Windy City」の由来となっています。ダウンタウンや北の方は治安が良く、ダウンタウンの少し北側で、若者向けのBarやクラブが軒を連ねているような繁華街もあります。市内のサウスサイド・ウエストサイドが、いろんなガイドブックなどにも記載されています通り、治安は悪いと思います。シカゴは銃犯罪の多い街として知られているかと思いますが(実際、テレビの地元ニュースでは毎日のように銃犯罪の事件についての報道があります)、場所はほとんどがこのサウスサイド・ウエストサイドのようです。

私の留学しているシカゴ大学はシカゴ市内の「ハイドパーク」という地区にあるのですが、ハイドパークは地図の上ではサウスサイドの中に位置しています。留学直前には、「シカゴ大学の近くに住む予定だけれども、治安とか大丈夫なのだろうか」と思ったものですが、大学があるためかこの地域だけは警察官も街角毎に立っており、人通りの多いところを通る・夜遅くに出かけない等、最低限のことに気をつければ安心して日常の買い物に歩いて出かけたりなどもできます。ダウンタウンに行くにも、湖沿いの高速を通っていくダウンタウン直通のバスが走っており(治安の悪い地域を通らない、ということです)、これまでのところ、特に危ない目にも合わずに生活できています。

12月のシカゴのダウンタウン

12月のシカゴのダウンタウン。Thanks Giving Dayの頃からクリスマスまでは、いろいろな通りが電飾で飾られ、大きなクリスマスツリーも設置され、とても華やかです。

シカゴ摩天楼群

ハイドパークのミシガン湖畔から撮影した、シカゴ摩天楼群。
シカゴは「摩天楼が生まれた町」としても有名だそうです。

ダウンタウン

Willis Tower(443 m、全米第2位の高さ)から撮影した、シカゴのダウンタウン


シカゴ大学は1890年に設立された、私立の大学院大学です。今回、この文章を書かせて頂くにあたりいろいろ調べたりもしましたが、これまでにノーベル賞受賞者を89人輩出しているとのことで、これはハーバード大学、コロンビア大学、ケンブリッジ大学に次ぐ数字です。いくつか存在する「世界大学ランキング」というものでも10位前後とのことです。医学部門は、大学創立から遅れること37年の1927年に創立されました。当初から基礎と臨床の融合に重点がおかれ、臨床部門においても、シカゴ大学病院は全米屈指のレベルを誇る総合病院です。私が所属している炎症性腸疾患センターは、全米でも数少ない炎症性腸疾患専門医養成プログラムを有している施設でもあり、アメリカ中から入院患者が集まるようなところです。ここで私は主に臨床データを集め、そこから解析することを中心に研究をしております(いわゆる「臨床研究」です)。研究テーマについては桜庭先生から頂いたいくつかのテーマを元に、それぞれについて研究を進めさせて頂くスタイルなのですが、テーマの一つとして、ステロイド抵抗性重症潰瘍性大腸炎に対するタクロリムスの奏効率や重篤な副作用についてメタ解析を行い、その結果は論文化し発表することができました。研究テーマ一つにしても、桜庭先生は本当にさまざまなアイディアを持っていらっしゃるので、まずそのことに驚かされます。それから、私の場合、例えば研究テーマに沿って文献検索する際など、当初は「何をもって前向き試験とするのか?」「後ろ向き試験とはどんなものなのか?」といった知識もほとんどない状態からスタートし、今に至るまで桜庭先生には本当にご迷惑ばかりおかけしてしまっていますが、これら研究データからどのようにして論文にしていくのかの過程も含め、学ばせて頂いているところです。なお、私の妻も消化器内科医師なのですが、私の研究を手伝ってもらい、桜庭先生からご指導頂いております。それぞれのテーマについてなかなか先が見えてこなかったり、さまざまな理由で解析を初めからやり直さざるを得なくなったり、そうこうするうちに今度は他のフェローの先生の解析・Figure作成を急いでしなければならなくなったり・・と、仕事が重なったときなどは特に忙しいと感じる時もありますが、臨床研究についてしっかり時間を割いていろいろ学べるのもおそらく今しかないと思うので、頑張ろうと思います。 

桜庭先生は消化器内科のassistant professorでいらっしゃるので、毎週外来もありますし、持ち回りで病棟患者を担当されるときもあります(「IBD (inflammatory bowel disease)-Fellow」が日本でいう病棟のオーベンのような立場で、桜庭先生と同じ立場以上の先生方が、1-2週間ごとに持ち回りで指導医として病棟を担当されます)。それで、桜庭先生が病棟を回診されるときに私たちもそこにつかせて頂いています。シカゴ大学に紹介される患者は、皆決まって病歴が複雑なものなのですが、フェローの先生を含め、まず把握するのがとても速いのに驚きます。それから、内視鏡以外の大概の検査を、夜中でも普通にオーダーできる(例えば、CTやMRIも夜間が緊急枠というわけではなく、夜間シフトの技師がいるので通常のオーダーでできるとのことでした)ことや、患者もどんなに夜中でも退院が決まれば退院できるので、その分入院期間が短く、入院患者の回転も速いと思います。日本ではまだ使用されていない薬剤もいろいろと使われており、その分治療の選択肢もかなり多いと思います。その分いろいろなパターンがあり、日本での炎症性腸疾患の治療よりも複雑に感じることもあります。(日本でもそうだと思いますが)薬剤投与間隔など、患者によっては変則的に短期間で投与する等といったことも時にありますが、基本的にはエビデンスに基づいた治療を行っていると思います。回診中のDiscussionで時々感じるのは、例えばある疾患の治療法について、「○○の論文でAよりもBの方で有意に奏効率が高いと発表されており、だからBという治療を行う」といった具合に、エビデンスとなる根拠を示して治療法をDiscussionしていることも多いです。このようなことは当たり前のことかもしれないですが、私自身のこれまでを振り返ると、ついつい耳学問だけで終始してしまっていたことも多かったので、自分の勉強不足を痛感しています。

恥ずかしながら、私も正直なところまだまだ理解できていないことも多いのですが、せっかくの機会なので、ここでいろいろ学ばせて頂き、今後の日本での診療に少しでも生かせることができれば、と思っております。

シカゴ大学の中庭

シカゴ大学のquadrangle(中庭)です。2月の、それも夕暮れ時に撮影してしまったので若干寂しげですが、夏は緑がとてもきれいな場所です。

シカゴ大学病院の正面玄関

シカゴ大学病院の正面玄関です。

シカゴ大学では私も妻も、いろんな先生と知り合うことができました。また、上述のように大学院大学であるので、医師以外にもさまざまな職の人・学生が留学しており、いろいろな人ともお話しさせて頂いています。ホームパーティーを企画して頂き、誘っていただくこともしばしばで、本当にありがたく思います。「こんなことが起こるの?」みたいなこともありますが、「アメリカだし、まあ、日本とは違うよね」と思い直し、時に桜庭先生やこちらで知り合った友人にもご相談させて頂き、夫婦2人で未だに下手な英語をどうにか駆使して生活しています。

最後になりますが、今回留学の機会を頂いた井戸教授、また消化器内科医局の先生方、こちらでご指導頂いている桜庭先生、いろいろと親切にして頂いている先生方・友人達に感謝申し上げます。アメリカで生活することで、様々な物事について(医学以外でも)、いろいろな考え方、見方があるのだと実感しています。残りの留学期間も、悔いの残らないように頑張ろうと思います。

2016年3月27日 小牧祐雅

ペンシルベニア大学(田ノ上史郎/平成13年入局)

鹿児島大学 消化器疾患 生活習慣病学所属 田ノ上史郎と申します。

私は2013年4月(—2015年3月帰国予定)にアメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアのペンシルベニア大学VAMC (Veterans Affairs Medical Center) 消化器内科にポスドク研究員として留学しております。こちらでの生活は現在約一年と半年になり、現在までの留学生活をご紹介させて頂きたいと思います。これから留学を考えている方、そうでない方にも私がどういった生活を送っているのか、そして既に行った方にはあるある話として参考になればと、拙文ながら綴らせていただきました。

ペンシルベニア大学について

ペンシルベニア州フィラデルフィアは米国東部にあり、ニューヨークとワシントンD.Cを結んだ直線上のほぼ中央に位置し、いずれの街へも車で2−3時間の距離にあり観光にも便利な街で、都市圏人口は500万人超と全米で5番目に人口の多い都市です。1700年代後半には一時米国の首都であった時期もあり、世界遺産に登録されている独立戦争時には憲法制定の舞台となったインデペンデンスホール、また映画「ロッキー」でロッキーがジョギングで駆け上った階段のあることで有名なフィラデルフィア博物館があります。

そんなフィラデルフィアの中心部にあるペンシルベニア大学にゆかりのある日本人としては、ペンシルベニア大学名誉修士となっている野口英世氏や2000年ノーベル化学賞受賞者の白川英樹氏、2010年ノーベル化学賞受賞者の根岸 英一氏などがおられます。また研究に広く用いられる実験動物のウィスター・ラットで有名なウィスター研究所も学内に位置しています。

フィラデルフィアの街

フィラデルフィアの街

ペンシルベニア大学の外観

ペンシルベニア大学の外観


留学開始編

留学を考えるきっかけとなったのが2009年アメリカ肝臓学会でのことでした。学会の発表も終わり夕食で一杯飲んだ後、ある上司の先生から留学してみる?の一言。その先生も酔っぱらった勢いで言っただけで私が本気にするなんて思ってなかったかもしれません、その時は。もちろん海外留学に関しては全く興味がなかったわけではありませんが、正直とても迷いました。なんせ私自身基礎研究がそこまで性に合っているとも思っていませんでしたし 、これまでうちの科で留学してきた先生達みたいにはとてもとても自分は及ばない人材だし、医局も人手不足で大変だし。自分の臨床キャリアが中断する、子供3人でそこそこな年齢 、経済的な負担増収入減、、、 医局も家もこんな大変なタイミングに行くのかと何度も自問自答し、行かない理由はいくらでも思いつきました。

海外留学を希望するにはいろんな理由があると思います。家族で海外に住んでいろいろ経験したい、日本以外の異文化にふれてみたい、業績をあげたいなど、 私の場合は研究をさらに追究したいといった純粋な気持ちよりそれ以外のことのほうが多かったと思います。

その後、 本当に様々な先生方の助けを借りて紆余曲折ありながらも留学先が今の研究室に正式に決まったのが、それから約3年も経った2012年秋頃のことでした。慣れない英語で現ボスとメールで連絡を取り、その年ボストンで行われる学会で面接を行うことになりました。その時点で大学院を終え臨床どっぷりな生活を送っており、基礎研究から離れて約4年が経過していました。そのことも伝えた上での面接、ボスは学会場近くでコーヒーをのみながら約一時間半、パワーポイントを使い私のためだけに今自分が目指す研究内容をみっちり説明してくれたのでした。その間私が口を開いたのは一言二言、面接というより話を聞いただけだったので正直これで雇ってくれるのだろうかと思ったのも束の間、その場で握手をかわし春からよろしくとの言葉、それまでぼんやりと本当に行けるのかなと思っていた留学が確定した瞬間でした。

それから留学の手続きをまさに手探りで開始、いよいよ家族5人(私;36才、妻?才、長男;小学4年生、長女;小学2年生、次女;幼稚園)での海外留学の始まりです。パスポート作成、あえて大阪でビザ所得、アメリカでの住居探し(幸いフィラデルフィアには日本人の不動産業者の方がおられ、渡米前から住居探しも可能でした)、日本とアメリカでの学校の手続き、歯科チェック、おびただしい数の予防接種などなど渡米前の手続きが多いことに目が回りそうでした。

2013年3月下旬、いよいよ渡米の日、鹿児島空港では親戚達が見送りにきてくれ、まだ出発もしていないのに皆ホームシックになりそうになりながら家族みんなで空港ゲート内に入ったのでした。そして、搭乗を待っていたとき、ここはゲート内だというのに見たことのある人が近づいてくる、、、 そう2009年アメリカ肝臓学会で最初に私に留学を進めてくれた先生がゲート内まで見送りに来てくれたのでした。あまりに驚いたので感極まり泣きそうになりながら握手を交わし、決意新たに飛行機に乗り込むのでした。我が故郷鹿児島から、羽田、成田、シカゴ経由で家族5人、大人はへとへとになりながら、子供達は初めての海外にも関わらず以外に元気にフィラデルフィアの地へ無事おりたったのでした。


生活編

渡米後は休まる暇もなくいわゆる生活のセットアップに奔走することになります。私は家族5人なので、アパートよりは少し広めの一軒家を借りることにしました。フィラデルフィアは4月も目の前というのに雪が降り積もり、到着後のホテルから移動し初めて家へ入った時は何もない家の中、暖房のつけ方もわからずみんなで震えて過ごし、そして子供達は築113年の古い貸家に“お化け屋敷だー”と騒ぐため、みんなで笑って住めば‘まっくろくろすけ’もでていくさと説得しなくてはいけない程古い家。ただ地元不動産の方によればアメリカの家はこういう古い家が多く、不動産は値が落ちることがまずないため、改装を繰り返しながら貸したり売ったりするのだそうです。そして、右も左も英語も分からず、時差と戦いながら車の購入、銀行口座の開設、家具、生活用品、食料品の購入などなど。準備していたお金もどんどん減っていき、これで2年もつのかしらと不安になります。

さらにいろんな手続きでは早速洗礼を受けることになります。役所の見るからに無愛想な感じの自分の体の2-3倍はあろうかという大柄な窓口の人たち。こっちに少しでも手続きに不手際があると出直してこいと言われ、子供3人つれて雨の中やっと役所まで来たんだからなんとかしてくれと食い下がっても聞く耳もってもらえず。書類は郵送するから数日で届くよといわれても1ヶ月はかかるのは当たり前、、、 日本のお役所が天国の様に感じました。その後、足下の開いている公衆トイレに慣れたころには、自分の英語力の低さは置いといて、とにかくそういう対応にも負けず自分の主張を通す度胸もついていくのでした。

子供達は現地の学校と週末の日本語補習校に通います。現地校の初日、とりあえず手続きだけしようと思って子供を連れて行ったところ、いきなり先生が事務所にやってきて“さあ教室にいってみんなに紹介しましょう!”と、親も焦ってとりあえず子供たちに“Can I go to bathroom?”だけは教えて、子供達はわけもわからずいきなり先生に教室へ連れて行かれてしまいました。“手続きだけって言ったのにー!”と後でみんなに責められたのはいうまでもありません。そんなこんなで子供達は英語もランチのとりかたも分からないのに徐々に学校に慣れていきました。平日は現地校の宿題と日本語補習校からの宿題、野球やサッカー、音楽にバレエなどの習い事と大忙しながらもみんな精一杯、でも楽しく過ごしていました。日本語補習校はほぼ州ごとにあり、日本の文科省のカリキュラムに基づいて土曜日午前の半日だけで一週間分の授業を進める訳です。先生方も大変だし、子供達も大変かなと思っていましたが、週一回、日本人の友達と日本語で(そして奥様たちも同じ立場の研究員妻ならではの苦労話や駐在員の方や現地人と結婚し現地妻となった方達の話などなど)家族以外の人と日本語で話して遊べる日となるので、逆にストレス発散の場となっていたようです。

これまで日本では私の転勤が多いため自ずとみんな転校ばかり、長男にいたっては小学校4年生で幼稚園2カ所+小学校4校目、皮肉なことにアメリカでの2年間の小学校がこれまでで一番長い同じ学校での生活となり、これまで生活の場を点々とし家族には苦労をかけて申し訳ない気持ちとともに、異国の地で頑張っている家族を見ていると、自分で選んだ道なのだから後悔のない様に今できることを精一杯やろうという気持ちは強くなりました。そして子供達の適応能力の高さに驚かされ(彼らなりにいろいろと考えて苦労していることは端々に感じましたが)、大人の私たちの方が励まされ学ばなければいけないことが本当に多かったと思います。それでも食事は必ずと言っていいほど家族全員が集まり、子供達は学校で英語が話せた話せなかった、手をあげて初めて発表できた、妻は郵便局で相変わらず愛想のない窓口の人にやられた、道で見知らぬ黒人に怒鳴られたなどそれぞれに日々の出来事を話し認め合う、これまでにない程に家族の絆は深まっていくのを感じました。

現地での生活にある程度慣れてくると旅行もしたくなります。州内の自然豊かないくつもある州立公園、隣州ニュージャージー州のビーチ、定番のニューヨーク、ワシントンDC、少し足をのばしてカナダなど。高速道路が発達しており、また無料か安価でほぼ車で行ける範囲(最初は10時間ほどの長距離運転には慣れませんでしたが)にあり、それぞれ自然から都市の観光名所まで存分に満喫できました。

子どもたちの通う現地校

子どもたちの通う現地校

日本語補習校

日本語補習校


仕事編

当初ラボにはボス(アメリカ人)と私の二人体制で寂しかったのですが、 後に二人(共に中国人)加わり計4人体制となりました。私の所属したラボだけがとりわけアジア人の比率が高い訳ではなく、多くのラボでアジア人を見かけました。 私のラボがある施設は、ペンシルベニア大学内のその名の通り退役軍人の国立病院であったためセキュリティには厳しく、自分のパソコンは持ち込めず入室には必ずID提示が必要でした。余談ですが、アメリカの公共施設には常に武装した警官がおり、ときにはスーパーにもいました。我が家の周りも定期的に警察が見回りをしていました。最初は違和感がありましたが、後には彼らがいることで逆に安心感が得られるようになりました。

ラボで実験を始めるにあたり、ボスがメンバー全員を集めていくつかのプロジェクトをプレゼンし、誰がどのプロジェクトをするのかを決めます。私の実験は、私が2年しかラボに居れないことや臨床医でもあることをボスが考慮して臨床検体をベースにしたいわゆるTranslational research、つまり基礎研究で得られた知見を実際の臨床での診断・治療・予防の新技術へと発展させる研究分野のプロジェクトとなりました。このTranslational Researchではゴールを臨床での応用に設定しているため、基礎研究であってもその意義がはっきりとしていたため、こんな私でもモチベーションを保つことが容易でありました。 ボスもMD(Medical Doctor)であり、臨床医ならではの苦労(?)話(会話中にCT室からCr高いけど造影していいかの問い合わせが何度も来たり、ナースから薬の確認の電話が何度もきたりなど)で盛り上がり、万国共通なんだなと感じました。実験を開始するには、各研究員にそれぞれの研究内容によって、オンラインまたはハンズオンで必須のトレーニングが大学そして各施設から科せられます。例えば、マウスを使用するなら動物実験に関わるトレーニング、臨床検体を使用するならその安全、感染、情報管理などのトレーニング、全研究員共通のセーフティトレーニングなど、これらを達成しなければ実験を開始できないルールになっており、これだけでも言葉の壁もありかなり時間を要しました。

実験の内容は、肝癌、肝炎に関する免疫解析が主で、肝炎、肝硬変や肝癌患者血液から細胞を分離し、細かいサブセットの表現系や機能をFACSなどをベースに抗原特異的リンパ球や腫瘍微小環境の解析を行っていくというものでした。 データがバラついたりうまく行かない時のトラブルシューティングのやり方から、実際の手技の方法までボスは臨床で忙しい中、手取り足取り指導してくれるのでとても助かりました。他のPhDでラボをもっている人と違い、私のボスは臨床しながらのラボ経営であるので、ある意味日本の臨床医と状況が似ているところがあり実験以外にも時間の使い方、研究員の育て方などまで勉強になりました。 ミーティングは毎週水曜日にあり、各人がアップデートしたデータを皆に提示し、実験の方向性を修正したり意見を交換したりします。

ペンシルベニア大学病院

ペンシルベニア大学病院

キャンパス内のオブジェ

キャンパス内のオブジェ"The Love Statue"


最後に

日本人以外の様々な人種との交流などアメリカ独特の多様性(民族、国籍、人種、性、文化、言語、思想、宗教 etc.)を肌で感じ日本を俯瞰してみることのできる環境で自己を研磨することが留学の醍醐味の一つだと思います。そしてこれまで自分がおかれていた環境そして日本の良い点、悪い点を肌で感じ考えることができました。またこれまで本当に様々な人に助けられました。会ったばかりの日本人にも、英語のままならないこのアジア人を助けてくれたいろんな人たちにも感謝です。そして、何よりもこの留学中いろんなサポートをしてくれている大学の教室や病院のメンバーには感謝の気持ちで一杯です。この場を借りて御礼申し上げます。

留学したからといって特段賢くなるわけではありませんし、英語が急に流暢に話せるようになるわけでもありません。臨床医にとって海外研究留学は必要か?これにはいろんな意見があると思います。臨床キャリアの中断、経済負担、家族の負担を凌ぐものがあるのか。くれぐれもあくまで留学途中である私個人の見解で言わせてもらえば、臨床医として必要だったかどうかはこれからのことなので現時点では言えませんが、研究をすることで大切なことは論文を書くことだけではなく、そのプロセス、自分で論理的な仮説を組み立てそしてそれを実行解決していく、それは臨床や今後の人生においても必ず役立つと考えます。将来この2年間が自分そして家族にとってどういう意味を持ってくるのか、肌で感じ経験したことを意味あるものにしていくのは自分達次第、そういった当たり前のことを実現していく方法を言葉なく体に叩き込んで教えてくれるのもこの留学の意義の一つのような気がします。

以上、拙文ながらとりとめもなく私の留学体験を綴らせて頂きました。もしかしたらこれから機会があるかもしれないみなさん、留学を一度考えてみてはいかがでしょうか?

2014年8月 田ノ上史郎

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