犬を伴い外に出ると、澄んだ冷たい朝の空気が肺に広がる。鹿児島の冬はそこだ。年齢のせいか、季節の移り変わりに敏感になってきたようだ。ついでに若い頃のこともよく思い出す。
相澤久道先生に初めてお会いした日のことははっきりしないが、留学から帰国されたばかりの先生は革ジャンをはおり、田舎者の私にも明らかに日本製ではないと分かる革靴を履いて、例のガニ股で歩いておられたはずだ。
救急や人工呼吸管理に魅力を感じている新米医者たちにとって、呼吸生理学は難解そうだが学問と目の前の臨床を繋ぐことに強く惹かれるものだった。そして私は九州大学胸部疾患研究施設 肺生理研究室の門を叩く。
研究室では、しばらく遠ざかっていた数式との再会に戸惑う者、研究を始めてすぐに九州肺機能談話会でのreview talkを指名される厳しさに尻込みする者、様々である。その頃、人工呼吸器、生理学的指標のセンサーや記録装置は高価だったが、もともとモノ作りは得意である。なければ作ればいい。薬理学の故 栗山煕先生や伊東祐之先生に工作器具をお借りして研究装置のほとんどは手作りした。それも楽しく、研究費が乏しいとはあまり感じなかった。
私も研修医の頃は、自分の実力も省みず成果があがらないのは先輩や取り巻く環境のせいと、同僚と酒を呷ったこともある。が一方で、故 長野準先生が開設された肺生理研はOBとの交流が深い。故 廣瀬隆士先生は「自分がその研究室の看板となる仕事ができているか、くり返し自分に問うてみよ。胸を張って、日本を率いる意気込みで世界を目指せ。」とお目にかかる度に繰り返された。そして「一番大事なのは、自分の今の成果は偉大な先達の道程にあることを感謝することだ。」これらのお言葉は、私の姿勢の基礎になっている。
相澤先生が逝去されて、もうすぐ二年になる。
相澤先生の肩書きやその形容は様々である。"久留米大学医学部呼吸器・神経・膠原病内科の主任教授"、"九大胸研肺生理研究室の元室長"、University of California San Francisco - Cardiovascular Research InstituteのJay Nadel教授の下で、Dr.Paul O'ByrneやDr . Leonardo Fabbriらと共に "喘息の本態である気道過敏性と気道炎症を結びつけた研究者"。しかし、万人に分かり易い「肺年齢」という指標を広く浸透させて、敬遠される呼吸機能検査を普及させた功績は皆に共通の認識だろう。
一研究者として、井上博雅個人として、相澤先生と交わした話も交わせなかった話も尽きないが、先生はずっと「お前の仕事は人の役に立つのか、先達に恥ない仕事をしているのか。」と問い続けて下さっている気がする。
桃李言わざれども 下自ずから蹊を成す
相澤久道先生ありがとうございました。
2011年 乾いた寒い日が続いた2月11日 雷が響いて珍しく雨の匂いがした夕だった。
2012年12月 久留米大第一内科同傘会「故 相澤久道教授追悼誌」に寄せて