沿革

鹿児島大学医学部眼科学教室の歴史は、昭和18年鹿児島県立医学専門学校が設立された時にはじまる。以来、鹿児島県立大学医学部を経て現在の鹿児島大学になった。

この間、高野三喜男(昭和18年〜22年) 、高安 晃(昭和23年〜43年) 、 谷口慶晃(昭和43年〜51年) 、大庭紀雄 (昭和52年〜平成14年)が教室を主宰し、それぞれの時代に特色ある歴史をつくってきた。

高野 三喜男教授の時代(昭和18〜22年)

鹿児島医学専門学校は昭和18年に開校した。附属病院は明治初頭に英国人医師ウィリアム・ウイリスの指導の流れを汲む鹿児島県立病院を母体とし、眼科学担任教授には第12代眼科部長・高野三喜男(熊本医科大学出身)が就任した。

設立から昭和23年までの医専時代は終戦をはさむ多事多難の時代であり、眼科も例外ではなかった。高野は眼科学の診療をとおして、学生と教室員に全人教育を行った。その後の地域医療を指導してきた多くの有能な眼科医師を育成したことは特筆に値する。

昭和22年退官後は鹿児島市内で開業し盛業であった。鹿児島県眼科医会長を長く務めて県下の眼科医療界を指導されたが、平成元年他界された。

高安 晃教授の時代(昭和23〜43年)

高安 晃教授は、熊本大学助教授から転じて昭和22年12月教授に着任した。昭和43年4月1日の定年退官までの実に20年3ヶ月にわたって教室を主宰した。

着任当時は戦後の困難が尾をひく時代であり、診療棟もバラック建築であった。やがて、県立医学専門学校は県立医科大学に昇格、附属病院も新築された矢先の昭和27年4月24日、近くの民家から出火延焼して病院は灰塵に帰した。外来と医局は再びバラックに戻ったのである。

大学の教室らしい活動が可能になったのは、昭和30年4月に新しい附属病院の建物が完成、 昭和33年5月に年次移管計画で国立大学医学部としての眼科学講座が省令化されてからのことであった。この頃の教室では伊佐敷 康政、井後 吉久、松田 禎純、榊 真弥らが活躍した。

高安教授は、定年退官のあと郷里の日赤大分病院眼科部長として地域医療に尽力したが、平成2年2月5日逝去された。

谷口 慶晃教授の時代(昭和43〜51年)

高安教授の後任として九州大学・谷口慶晃助教授が昭和43年9月に教授に着任した。昭和51年9月1日付けで九州大学教授として栄転するまでの8年にわたって教室を主宰した。

教授在任の前半は全国規模の学園紛争の余波をうけて鹿児島大学も動揺した時代であった。さらに、後半は鹿児島市内中心から郊外へ医学部の新築移転があり、諸事多忙な時代であった。

谷口教授時代の後半、昭和49年には医学部および附属病院は鹿児島市内中心の城山の麓から郊外の亀ヶ原(現住居表示:桜ケ丘)へ新築移転した。東洋一の医療施設をめざす夢がふくらんだが、折り悪しくオイルショックと重なったために計画の縮小を余儀なくされた。外来患者数は一時的には減少したが、まもなく往時の活況をとりもどし、診療実績の向上のみならず教育資源としての豊富な臨床試料を確保した。

大庭 紀雄教授の時代 (昭和52〜平成14年)

谷口教授の九州大学への転出後の1年4ヶ月間、諸般の事由によって後任教授は空席であった。その間、藤田晋吾が代行した。昭和52年12月20日付けで、東京大学・大庭紀雄講師が第4代教授に着任し、平成14年3月に退官するまでの25年にわたって教室を主宰した。

難病としての遺伝性疾患「網膜色素変性」の研究課題には上原文行、鵜木一彦らがいちはやく関心を示し、いくつかの独創性豊かな研究成果をあげた。家族性視神経疾患のレ−ベル病は、稀ではあるが多くの謎を秘めた興味ある疾病であることに着目した上村昭典らのミトコンドリア異常の病理組織学的発見に続いて、伊佐敷靖らがミトコンドリア異常症を精力的に検討し一定の成果をあげてきた。

一方、ありふれた疾病の臨床的研究にも多くの教室員が興味をしめてきた。とりわけ、上村昭典、川野晃嗣らは網膜硝子体疾患や老人性白内障の手術療法の研究に取り組み、優れた臨床成績をあげてきた。

さらに、当教室が発見した HTLV-I associated uveitis (HAU) は、ぶどう膜炎の臨床に一石を投じる成果であり、他の施設での追試確認とあいまって国の内外から注目を集めた。