鹿児島大学大学院 医歯学総合研究科 神経病学講座 脳神経外科

教室案内 introduce

教室の歴史 history

脳神経外科学教室開講前

鹿児島大学における脳神経外科診療の歴史は、脳神経外科学講座開講前の第一外科講座時代に遡ることができるが、記録に残っているのは第一外科3代目の内山八郎教授が就任した昭和22(1947)年以降である。内山八郎教授は、脳神経外科を専門領域の一つとして診療、研究、教育に取り組まれた。昭和24(1949)年の第2回鹿児島医師会学会での就任後はじめての特別講演のタイトルは「脳外科について」であった。昭和33(1958)年には内山八郎教授が第17回日本脳神経外科学会で評議員に推薦されている。その後昭和34(1959)年に第一外科内に脳神経外科研究室が整備され、脳神経外科研究も盛んに行われるようになった。その頃は診療面では脳腫瘍以外に、脳血管障害、てんかん、頭部外傷、先天異常など幅広い疾患の治療を手がけるようになった。

写真:脳神経外科の表札 写真:脳神経外科の表札

内山教授退官後の昭和47(1972)年に刊行された『内山八郎教授脳神経外科関係業績集』の序文の冒頭には以下の文章がある。「私が脳神経外科の研究を志したのは昭和10 (1935)年頃になる。昭和14 (1939)年に米国に留学してDr. Dandy, Dr. Sachsに師事した。Dr. Rand, Dr. Andersonなどにも接し、頭部外傷、脳腫瘍について研鑽し、脳神経外科医になるべくこころがけた。しかし、第二次世界大戦に遭遇したため、その進歩は微々たるものであった」。いずれも脳神経外科学のパイオニアとして世界的に有名な脳神経外科医である。鹿児島大学脳神経外科教室の源流は、これらの先人達が活躍していた時代にあると考えられる。「そのうちに自分の年令が50才を過ぎてしまうと、第一線で脳外科に専念することは不可能な状態となった。幸いに門下生の中で脳神経外科研究班が結成されて、施設も次第に充実してきた。」とも述べられている。この内山教授時代の脳神経外科の発展には、脳神経外科研究室白尾哲哉チーフの貢献も大きい。

昭和38(1963)年に日本で初めて東京大学に脳神経外科学講座が誕生し、全国の大学に脳神経外科学講座開設の動きが広まった。鹿児島大学においても昭和49(1974)年に脳神経外科講座の設置が認可され、昭和50(1975)年3月16日に脳神経外科教室が開講された。

脳神経外科学教室開講後

初代教授 朝倉哲彦(昭和50(1975)年3月16日―平成9(1997)年3月31日)

脳神経外科学講座の初代教授として東京女子医科大学より朝倉哲彦が着任した。着任後に講座開設の準備を開始し、ここに鹿児島大学脳神経外科学教室の歴史が始まった。講座開設後には脳神経外科への入局者が増え、翌昭和51年9月には教授以下総勢14名で脳神経外科の本診療をスタートさせた。専門領域であるてんかん外科を中心に脳神経外科全般にわたって診療、研究、教育体制の基盤を確立した。平成4年(1992年)には鹿児島で第51回日本脳神経外科学会総会を主宰した。初代教授として脳神経外科講座の基礎を確立し、平成9年に定年退官された。

2代目教授 倉津純一(平成9(1997)年11月1日―平成16(2004)年3月31日)

熊本大学より倉津純一が着任した。更なる脳神経外科学講座発展のために尽力し、診療面では入院患者数、手術症例数が増加していった。また、専門の脳腫瘍研究を中心に研究体制を構築し、研究活動の活性化に貢献した。平成16年に熊本大学脳神経外科教授として転出した。

3代目教授 有田和徳(平成17(2005)年10月1日―平成30(2018)年3月31日)

広島大学より有田和徳が着任した。専門分野である下垂体腫瘍やてんかん治療を中心に、鹿児島大学の診療、研究、教育の更なる発展に尽力し、手術症例数は年間500例近くまで増加した。鹿児島大学病院に下垂体疾患センターやてんかんセンターを設立し、多診療科で脳神経外科疾患を診療する体制を構築した。またインドネシアやネパールなどから若い脳神経外科を積極的に受け入れ、国際的脳神経外科教育にも貢献した。平成30年に定年退官された。

4代目教授 吉本幸司(平成30(2018)年4月1日-令和4(2022)年3月31日)

九州大学より吉本幸司が着任した。専門分野である脳腫瘍を中心に鹿児島大学の診療、研究、教育の更なる発展に尽力した。また、鹿児島大学独自のオンコパネルを用いた解析法の導入など、新たな取組みを行った。令和4年に九州大学脳神経外科教授として転出した。

5代目教授 花谷亮典(令和4(2022)年4月1日着任)

花谷亮典が着任した。