教授からのごあいさつ

教授 山下 勝

みなさま

鹿児島大学 耳鼻咽喉科・頭頸部外科学分野のホームページにようこそ!
令和2年5月より、当教室の第5代教授に就任いたしました 山下 勝 です。
耳鼻咽喉科・頭頸部外科は首から上の、眼と脳・脊髄・脊椎を除いた領域を担当する診療科です。全身からみますと狭い領域ですが、味覚・嗅覚、聞く、話す、飲む、息をする、という人間の生活の質(Quality of Life)と密接なかかわりを持つ臓器をとり扱います。このため、老若男女問わず多岐にわたる疾患に対して、内科的な治療および手術などの外科的治療のいずれも担当します。

個々の治療方針については患者さんやご家族と相談させていただき、最善の方法を一緒に選んでいきます。重要な機能をなるべく良い状態に維持できるよう、患者さんを中心として、医師だけではなく、多職種の方々によるチームをつくりながら、安全かつ信頼のおける治療を行っていきます。

大学としての責務は、大学病院における高度治療の実践、将来の医学発展に寄与する先進的な研究、将来を担う医療人の教育・育成、さらに地域医療への貢献にあります。時代の変化とともに、患者さんの希望や医療の常識、期待される医師像も絶えず変化します。また、ハード面でも自動車でおなじみのナビゲーションシステムの登場、手術用ロボットや狭い口のなかから悪性腫瘍を切除できる器具など様々な診療機器の開発、人工知能(AI)、さらには遠隔診療などが登場してきました。
どのような大きな変化が生じても柔軟に対応して進化していく体制を目指す一方、これまで長きにわたり先人たちが築き上げてきた立派な功績を後世に伝えるべく弛まぬ努力を続けていくつもりです。

私は平成8年に鹿児島大学を卒業し、京都大学耳鼻咽喉科・頭頸部外科教室に入局しました。以降、京都大学ならびに関連病院での勤務、大学院博士課程、米国ウィスコンシン大学への留学を経験し、再び母校に戻ることになりました。
臨床では声をよくする手術(音声外科)を中心とする喉頭科学、悪性腫瘍を含む頭頸部腫瘍治療、鼻詰まりや慢性副鼻腔炎・アレルギー性鼻炎を治療する鼻科学を得意としています。研究では気道の一部である喉頭・気管の再生医療、頭頸部の臓器を人工材料によって再生させる組織工学的再生研究をこれまで行ってきました。

臨床・研究・教育という大きな3本柱を発展すべく、日々の研鑽からより良いものを創造していけるような、医局運営ならびに医師教育を行っていくつもりです。
ここ、鹿児島の地で、教室員がOne teamとなって、世界を見据えて地域で行動を起こす、グローカリゼーション(Think globally, act locally)を実践していきます。ご支援、ご協力をよろしくお願いします。

令和2年5月
鹿児島大学大学院医歯学総合研究科
先進治療科学専攻 感覚器病学講座
耳鼻咽喉科・頭頸部外科学分野
教授 山下 勝

教室設立の歴史

鹿児島における医学教育は元治元(1864)年に設立された薩摩藩藩学・開成所にまで遡る。当時、教えを受けた薩摩藩士たちが教授となり、軍事、自然科学とともに医学を教授していた。同開成所は明治元(1868)年に藩学・造士館(安永2(1773)年島津重豪により藩校として創設。安永3年医学院設立)に合併され、明治2(1869)年新たに医学院(藩病院および附属医学校)が設立された。同年の鳥羽伏見の戦いの後、負傷者治療を行った英国人医師ウィリアム・ウィリスを病院長・医学校長として迎え入れることとなった。ウィリアム・ウィリスは明治2(1869)年末から西南戦争勃発の明治10(1877)年までの8年にわたり、鹿児島において医学校と病院での指導と実践にあたった。明治15(1882)年から明治21(1888)年、鹿児島県立医学校の設置がなされたが、医学教育の歴史はここで一旦途絶えることとなる。

ウィリアム・ウィリスの流れを汲む県立鹿児島病院は、一時期(明治21年~26年)私立鹿児島病院、そして明治26年~40年3月の市立鹿児島病院を経て、再度県立鹿児島病院へと紆余曲折した経緯をたどった。そして明治40年5月にこの県立鹿児島病院に初めて耳鼻咽喉科が開設された。初代部長に羽根喜一が着任し、これが鹿児島における名実ともに耳鼻咽喉科の専門医療のスタートになった。その後、2代目十倉頼介、3代目武田元一郎、4代目後藤雄平、5代目緒方周一、6代目宮城沍山、7代目原田雄吉、8代目寺師忠雄(昭和14年~18年3月)の各部長により県内の耳鼻咽喉科診療の基幹を担い、昭和18(1943)年に鹿児島大学医学部の前身となる県立鹿児島医学専門学校の開校によって同校附属病院として発展的解消を遂げた。

8代目寺師忠雄は、県立医学専門学校の初代教授に任命されたが、一度も教鞭をとることなく昭和16(1941)年に応召され、硫黄島で戦死した。その間、米良立身が県立病院から医学専門学校の助教授として、耳鼻咽喉科学の講義や診療に携わり、終戦を機会に宮之城町で市外地として最初の耳鼻咽喉科医として開業し、名声を博した。

一方、教育機関としては明治34(1901)年、文部省直轄諸学校管制中改正の件公布により、(旧制)第七高等学校造士館が追加された。

昭和22(1947)年、県立鹿児島医科大学開設、昭和24(1949)年鹿児島県立大学に医専および医大を統合。
昭和27(1952)年、鹿児島県立大学医学部設置認可、昭和30(1955)年、国立鹿児島大学医学部となる。
昭和33(1958)年、鹿児島大学大学院医学研究科設置認可。
昭和49(1974)年、桜ケ丘キャンパスへ移転。
平成15(2003)年、大学院医歯学総合研究科設置
平成16(2004)年、国立鹿児島大学は国立大学法人鹿児島大学として新体制でスタートした。

歴代教授

初代教授野坂 保次 (昭和21年4月~昭和31年1月)

教室の形態が整ったのは、昭和21年に野坂保次教授が着任してからである。終戦後の混乱期にあって、「耳鼻咽喉科領域の形態学的研究」を主題に研究を進められ、乏しい研究費、不満足な環境の中で教室の基礎が着実に出来上がりつつあった時、昭和27年の大火で教室の有形、無形の全財産が焼失したことは誠に惜しみてあまりあることである。野坂教授は日本耳鼻咽喉科学会鹿児島地方会を設立し、昭和31年1月まで教室を主宰したのち、熊本大学に耳鼻咽喉科教授として転任し、熊本大学医学部附属病院長として活躍した。

第2代教授久保 隆一 (昭和31年3月~昭和52年4月)

昭和31年3月久保隆一教授が着任した。卓越した手術技量をもち、厳格な教室員への手術、カルテ記載の指導のみならず、学生にも熱血指導を行った。「局所麻酔薬による偶発症の発生並びにその対策について」、「頸部廓清術における胸管損傷の問題」、「喉頭外傷の動物実験による病理学的観察」、「中咽頭悪性腫瘍の治療、特に口蓋扁桃腫瘍の治療について」、「慢性副鼻腔炎手術例の臨床:経手術副鼻腔炎への対策」などの全国学会のシンポジウムを次々に担当し、昭和47年には第24回日本気管食道科学会総会を主催し、会長を務めた。また、久保教授は文部省在外研究員として3か月、西ドイツを中心に欧米の大学を視察した。喉頭全摘術後患者の発声訓練を目的とした「鹿大鶴鈴会」を昭和48年に発足し、この功績によって昭和50年「南日本文化賞」を受賞した。その他、鹿児島大学附属図書館医学部分館長、鹿児島大学評議員、鹿児島大学医学部附属看護学校長、鹿児島大学医学部附属病院長も併任し、昭和52年4月、鹿児島大学医学部教授を定年退官した。同時代には県立大島病院、国立都城病院、県立宮崎病院、国立鹿児島病院、鹿児島鉄道病院に教室員を派遣し、耳鼻咽喉科の地域医療に貢献した。昭和58年秋の叙勲で「瑞宝中綬章」を受章された。

第3代教授大山 勝 (昭和52年11月~平成9年3月)

昭和52年11月、三重大学助教授から大山勝教授が着任した。着任当時わずか9名の教室員であったにもかかわらず、臨床、教育、研究のいずれにも精力的に取り組み、特に基礎的研究に重点をおいて、電子顕微鏡を始めとする各種の研究機器をいち早く医局に導入すると共に、着実にその成果をあげた。

教室のテーマである「上気道粘膜の基礎的、臨床的研究」に取り組み、昭和59年の第85回日本耳鼻咽喉科学会総会において宿題報告「上気道粘膜の病態生化学」として発表した。また、当教室で開発された「ファイバースコープを用いた慢性副鼻腔炎レーザー手術」や「頭頸部領域の脳神経反射」をはじめとして多くの研究を展開し、国内外の注目を集めた。

教育にも熱心で、臨床講義には内外の第一人者を招いた講義を行ったり、教室員や県内の耳鼻咽喉科医を対象としたセミナーを開催したりした。海外からの留学生の受け入れにも注力した。卒前の臨床実習ではマンツーマンで教官を学生に配し、より実際的な実習を実施した。外来・病棟にもいち早くビデオ内視鏡システムを導入し、常に複数の目で診断するようにするなど、卒前・卒後の教育に役立てた。

“和と情熱”をモットーとする教室の雰囲気と活気、そして温厚な人柄と優しさが学生にとって大きな魅力となり、平成9年に退官するまでの入局者数は69名を数えた。これらの門弟は現在も鹿児島の耳鼻咽喉科医療を支えている。退官後は平成9年4月から平成12年8月まで大島郡医師会病院病院長を務め、平成23年春の叙勲で瑞宝中綬章を受章された。

第4代教授黒野 祐一 (平成9年11月~令和2年3月)

平成9年11月に大分医科大学助教授から黒野祐一教授が着任した。

専門とする頭頸部癌や鼻疾患のみならず広く耳鼻咽喉科疾患の診療体制を整えるとともに、粘膜免疫を教室のテーマとして基礎研究にも精力的に取り組み、多くの耳鼻咽喉科医そして研究者を育成した。

研究テーマは、「上気道感染症と粘膜免疫」であり、ワクチンによる上気道感染予防法の確立を教室の柱とした。東京大学医科学研究所やアラバマ大学バーミングハム校へ継続的に医局員を留学させ、経鼻、舌下および経皮ワクチンの実用化を目指した研究を推進した。その他、アレルギー性鼻炎や好酸球性副鼻腔炎、感染症、扁桃病巣疾患に関する研究も行い、着々と成果をあげた。研究の集大成を平成30年の第119回日本耳鼻咽喉科学会学術講演会で「上気道炎症の粘膜ワクチンによる制御」と題して宿題報告を行い、その功績が高く評価された。また、研究者として競争的資金の審査に貢献したことが評価され、平成27年に日本学術振興会より表彰された。

学会活動にも精力的に取り組み、平成20年2月から平成26年2月まで日本耳鼻咽喉科免疫アレルギー学会理事長、平成28年9月から令和元年9月まで日本耳鼻咽喉科感染症・エアロゾル学会理事長を務めた。また、日本耳鼻咽喉科学会をはじめ日本鼻科学、日本頭頸部外科学会、日本気管食道科学会、日本口腔咽頭科学会、日本小児耳鼻咽喉科学会の理事を歴任した。その他、急性副鼻腔炎診療ガイドライン、急性副鼻腔炎に対するネブライザー療法の手引き、鼻アレルギー診療ガイドライン、嗅覚障害診療ガイドラインの作成に尽力し、耳鼻咽喉科診療の質の向上に貢献した。令和元年には第120回日本耳鼻咽喉科学会総会・学術講演会を当教室として初めて主催した。

参考文献
鹿児島大学大学院 耳鼻咽喉科・頭頸部外科学教室 同門会誌「さくらじま」第1号-第33号
鹿児島大学医学部二十五年史
鹿児島大学医学部五十年史
鹿児島大学医学部七十年史
日本耳鼻咽喉科学会創立125周年記念誌