離島の診療所での医療、保健活動を理解し、地域医療、チーム医療に関する学生教育の可能性を検討する目的で平成24年3月15日より与論島のパナウル診療所を訪問した。16日からは保健学科地域看護・看護情報学講座の大友教授、南部助教、森助教、薬剤部の有馬先生が合流した。
パナウル診療所では、内科、外科、小児科を標榜し、往診も行っている。訪問時には国際医療研究センターの総合診療コースの1年目初期研修医が地域実習として1ヶ月の研修中であった。また鹿児島大学医学部5年生1名も1週間の利用へき地実習を行っていた。私たちは診療所と往診によりどのように地域住民の医療を行っているかを見学すると同時に、研修医と学生が何を経験し、何を感じ取っているかを見学させていただくことができた。
パナウル診療所は0歳から100歳を超えるという患者さんまで診療されており、患者さんとご家族との会話にも家族ぐるみのかかりつけ医であることがあらわれていた。古川医師は与論島の住民の家族の絆の強さに裏付けられた介護や自宅での看取りが当たり前であると説明してくれた。都市部であれば耳鼻科に行くであろう副鼻腔炎を診療し、外来で可能な外科の治療を行い、また入院や専門医への紹介が患者にとっては大変であることから診療所で引き受ける範囲が非常に広いことも数時間の見学で感じることができた。古川医師は地域医療を担う医師にとっての総合診療の教育の重要性を強調されていた。総合診療といっても都市部とこのような離島ではその守備範囲に明らかな違いがあることも理解された。電子カルテが導入されているにも関わらず紙のカルテを併用しているのは、往診で必要ということもあるが台風で停電になった時に紙カルテがないと困るからだとのこと。島のご苦労と工夫が伺われた。
研修医は研修初日から急性疾患の初診外来、症状が安定している高血圧等の慢性疾患患者の診療、小児のワクチン接種など古川医師が振り分けた患者を担当していた。頻度の高い内科疾患ばかりでなく、切創、打撲、膝関節症など外科、整形外科領域の疾患の診療にもあたり、古川医師が必要なときにアドバイスをし、指導をして安全な研修が進められていた。学生は血圧測定、心電図検査を担当し、研修医と古川医師の診療の見学を行っていた。古川医師だけではなく研修医からも指導を受け、2年後には何ができなければいけないかも理解する機会となっていた。
地域での経験は‘work’であることがcommunity-based educationの特徴として説明されているが、まさにそのような学習であることがわかった。患者の具合が悪ければ休日でも往診の求めに応じ、血液検査は血算以外は検体を島外に飛行機で輸送するため、どんなに急いでも結果が出るまで丸一日以上かかる中で、面接と身体診察、自分で実施可能な検査から判断し意思決定する診療の基本がここで実践されている。求められているのは優れた臨床技能とプロフェッショナリズムを有した医師であることを研修と学生は学んでいることがわかった。
私の目からは、もっと理解すべき患者との対応や地域及び地域医療の特性があるが、学生や研修医は学びとれていないようにも感じたことは事実である。ここでの学習成果を高めるためには離島へき地ではない地域医療の実状を事前に理解していることと、自ら学び取り向上する能力が非常に重要だということもわかった。古川医師がいつどのように最新の情報と技能を修得しているのか、この島で医師としてどのように生活をされているのかロールモデルとして学ぶことは非常に多い。また、私が研修医に成人教育学の原理である「成人は問題に直面して学ぶ」ことを説明すると、早速翌日の検査に向けて必要な事項の知識の整理をしていた姿に、学ぶ環境にいる時に少しのアドバイスで学習が進む若い学習者の可能性を実感した。
地域看護と薬剤部の教職員はそれぞれの専門の立場から診療と地域の保健活動を見られていた。最終日には与論町で初めての保健師として保健活動を作り上げてきた林末美さん、徳之島の鹿児島県の保健師である鵜狩さんらと地域の特徴、現状と問題のお話を伺い、質疑を行った。与論だからこその人のつながりがあり、地域の活動になじめない住民があり、地域の保健師ひとりがカバーする範囲は広く県との連携が必要になっている、乳幼児と母親、妊婦、学童、精神疾患等の保健活動をするためには医療、教育、警察等との連携も必要であり、島のあらゆる人的資源を活用して無いものを生み出すというお話もあった。これらは古川医師のお話からも理解できたことであるが、島の住民がこれまで島で生きてきたすべそのものが、島の医療と保健活動の解決策となっていると感じられた。
今回の視察を通して、鹿児島の離島の医療、保健の現状と、日本全国の医学教育の受け皿となっている状況を理解することができた。また、古川医師、林さんをはじめとする地域の関係者と大学教職員とのよりいっそうの連携の可能性が広がったことは大きな収穫であった。